郊外から東京へ。片道1時間半の「実験」の始まり
15年前のあの日、僕は郊外にある静かな自宅から、東京にある設計事務所へと通っていました。
20代半ば。若さと、根拠のない万能感に溢れていた僕は、ある無謀で、今思えば恐ろしい「人体実験」に自分を投じていました。
「限界まで働いたら、人間はどうなるんだろう?」
設計の世界は厳しい。それは覚悟の上でした。でも、僕が足を踏み入れたその場所は、想像を絶する「漆黒」の世界でした。電気設備の図面を引く、その緻密な作業の裏側で、僕の日常は音を立てて崩れ始めていました。
朝4時の静寂、段ボールの寝床
事務所に泊まり込むのは当たり前。家に戻れるのは、週に1度、着替えを取りに帰る時だけ。
僕のルーティンは、深夜の静寂の中で加速しました。
誰もいないオフィスで、青白いモニターに向かって図面を引く。マウスのクリック音だけが響く中、時計の針が深夜の2時、3時を回り、4時を指す。
そこが、僕の「一日の終わり」でした。
デスクの横に敷いた段ボール。それが僕の寝床です。
泥のように眠りに落ちる瞬間、僕の頭の中には妙な高揚感がありました。
「これ、2ちゃんで見たやつだ!」
ネット掲示板(2ちゃんねる)の「ブラック企業スレ」に書かれているチェックリスト。「サービス残業当たり前」「泊まり込み」「深夜4時までの業務」。
「これ、全部当てはまってる。僕は今、伝説のブラック企業にいる」
過酷な現実を、まるで「答え合わせ」でもするかのように面白がっている、歪んだ高揚感。悲劇の主人公というよりは、観察者。そんな奇妙な心理状態が、僕を支えていたのかもしれません。
サービス残業200時間。削られていく「脳」の境界線
月の残業時間は、優に200時間を超えていました。もちろん、そのすべてがサービス残業です。
連日の徹夜で、意識と無意識の境界線が曖昧になっていく。
図面を引く手の感覚が消え、文字が躍り、耳元で聞こえるはずのない音が鳴り始める。
「労働基準法なんて、とっくに無視されている。辞める権利だってある」
頭では分かっていました。でも、当時の僕は「この極限の先にある景色」を見ることへの、奇妙な執着に憑りつかれていました。自分の脳が悲鳴を上げていることに、気づかないふりをしていたのです。
コンビニの冷めた弁当をかき込みながら、僕は「まだいける」「まだ壊れていない」と自分に言い聞かせていました。今振り返れば、その「意地」こそが、すでに病の兆候だったのかもしれません。
崩壊の音。統合失調症の発症
そして、その時は突然訪れました。
張り詰めていた糸が、プツリと切れる音。
「実験」の結果は、「統合失調症の発症」という、あまりにも重すぎる代償でした。
限界を超えた脳は、現実と妄想の区別がつかなくなり、僕は強制的にその場から引き剥がされました。
「何者かになりたい」
「プロとして認められたい」
そんな青い野心が、自分の命そのものを削っていたことに気づいた時は、もう遅かったのです。
今、クローゼットにあるVansonのレザー。
15年経った今では「10年モノ」以上の風格を湛えていますが、あの頃の僕にとっては、まだ手に入れたばかりの、あるいはこれから共に歩んでいくはずの真っさらな相棒でした。
そのレザーが、僕の体の一部のように馴染むまでには、想像を絶する「空白」と「再生」の時間が必要だったのです。
2026年、今の僕が思う「あの日の実験」
今の僕は、リモートワークを活用した事務職として、穏やかな街の家で働いています。
週1回しか帰れなかったあの頃とは違い、毎日、愛する妻と食卓を囲んでいます。
時にはあえて出社することで生活のリズムを整える。そんな「自分の手綱を自分で握る」働き方に辿り着くまで、本当に長い時間がかかりました。
このブログでは、この「暗黒時代」から、いかにして「ココロを整える暮らし」に辿り着いたのか。その紆余曲折を、包み隠さず綴っていこうと思います。
次回、僕は精神科の入院、そしてデイケアという「再生」の第一歩へ踏み出します。
そこで待っていたのは、想像もしなかった「ホワイトすぎる地獄」――高校事務での挫折でした。

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